星に願いを


 流れ星が流れるまでに三回お願い事をすれば、そのお願いが叶うそうですよ。
 でも、それだとすごく早口でお願いをしないといけませんよね。
 たぶん私には無理ですね。
 だって、早口言葉が苦手ですから。

 白い部屋の真ん中で、彼女は眠っていた。
 白いベッドに、白いカーテン。 小さな四角い部屋の中で、その何にも増して白い、彼女の肌。
 深く、静かに、彼女は眠っていた。
 深く、深く、安らかに。 身じろぎひとつせず。
 花瓶に挿された花が、ふっと風になびき、静かに揺れる。
 甘い匂いを、かいだ気がした。

 自分と彼女がどういう関係だったのかは、正直よくわからない。
 ただの友達だったのかもしれないし、それ以上だったのかもしれない。
 もしかすると、単なる顔見知り、ただそれだけだったのかもしれない。
 気づけばそこにいて、お互いに、ただなんとなくそこにいる。
 思い返せば、それだけの関係だったようにも思える。

 葬列は、秋空の下、押し殺すような哀しみの中、続く。

 彼女と始めて会ったのは、一昨年の夏。
 大学の構内で、彼女は自分を友人の一人と間違えた。
 慌てる姿が妙におかしく、赤面する彼女に、そう、自分は確かに好感を持った。

 電車を乗り継ぎ葬場へと向かう。
 最後。 本当の最後まで付き合うほど親しかったのかどうか。
 彼女の気持ちと、自分の気持ち。
 もはや確かめる術もないその二つの感情が、理由もなく、そこに行かねばならないと思わせたのだろうか。
 ぐるぐると思い悩む頭でぼんやりと車窓の向こうを見れば、空は呆けたような快晴で、なぜか苛立ちが募る。
 曇りならばまた違った気持ちになるのだろうかと、他愛もないことが、ぐるぐると頭を巡っていた。

 長く続く葬場の廊下で、ぽつんと佇む自分のもとへ彼女の両親がやってきた。
 自分とは面識のないはずの老夫婦は、ただしきりに、何かを堪えるようにありがとうを繰り返し、去った。
 後に残された自分は、じっと、去り行く二人の背中を見つめながら、母親の手に握られたくしゃくしゃになったハンカチや父親の顔に刻まれた深い皺を思い出す。
 二人の哀しみの残滓が、黒雲のように目の前を漂っているような気がした。
 周りを見回せば、あるものは嗚咽を漏らし、あるものは静かに肩を震わせ、誰もが思い思いに哀しみを表現している。
 知った顔もいくらかは見えた。
 だが、なぜか自分は、その輪の中に入って行こうと思えなかった。
 出来なかった、と言うべきかも知れない。
 どこか、いまの自分とは隔絶された世界が、そこにあるような気がしていた。

 空は晴れ渡り、雲のかけらすら見えない。
 薄く窓を開けば、秋の少し肌寒い風が、静かに凪いで頬を撫でる。
 悲しみを彩るのは雨だろうに。
 気の利かないその無責任さに呆れてしまい、少しは悲しい顔をしてみたらどうなんだと呟き、少し笑った。
 不謹慎にも、自分は笑う。

 空っていうのは意地悪ですよね。
 うれしいときに雨で、悲しいときにお天気で、こっちの都合なんかお構いなしで。
 でも、明日は晴れるといいですね。

 やがて彼女はいなくなる。
 白いベッドよりも、白いカーテンよりも、白い彼女の肌よりもなお白い、小さなかたまりだけを後に残して。

 二人の関係はともかくとして、彼女と自分はよく話をした。
 表情をあまり表に出さない自分と、ころころと笑い、時に泣きそうになり、ふとしたことでぷいとヘソを曲げる彼女。
 趣味も、学部も、性格すらもまるで違う二人だったが、波長が合った、とでも言うのだろうか。
 他愛もない話でも、彼女とならば楽しかった。
 顔を合わさない日も多かったが、ひとたび会えばいろいろな話をした。
 本の話、音楽の話、スポーツの話。 不思議と話題は尽きず、時には政治や科学など、小難しい話で顔をしかめあったりもした。
 時に話し手であり時に聞き手である関係の中で、彼女がよく口にしたのは星の話だった。
 星空にはロマンが詰まっていると言い、その話になるととたんに饒舌になる彼女は、いつも決まって長広舌を振るっては我に返って顔を赤らめていた。

 あの山はとっても星が綺麗なんですよ。
 一面、星の絨毯みたいで。
 流れ星だって見られるかもしれませんよ。
 お願いごと、考えておきましょうね。

 たとえ彼女がいなくとも、毎日は変わりなく進む。
 慌ただしく日々は過ぎ、やがて一年がたった。  季節は夏から秋へと移り、木々が鮮やかな彩りに包まれる頃、ふと思い立って山を登ることにした。
 何の気なしにつけたカレンダーの丸印。
 彼女の命日であることを示すそれを目にするうちに、少しずつ、鮮やかに蘇ってきた記憶がそうさせたのだろうか。
 なんにせよ、自分は山に登ったのだ。

 長い廊下の奥から運ばれてきたのは、小さな白い箱だった。
 肩を震わせながら、それを丁寧に布で包む彼女の両親の姿にぼんやりと目を向けていると、不意に彼女の顔と声が目の前に浮かび、消えた。
 息が詰まり、忙しげに眼をさまよわせるが、無論彼女はもうここにはいない。 そこにあるのはただの残骸である。
 気持ちが昂ぶれば、そのようなものを見、聞くこともあるのだろう。
 そう割り切ってしまえば納得も出来る。
 出来るのだが、しかし。
 自分でも意外なほどに心は落ち着いていた。
 思い返せば、病院のベッドの上にいる彼女を見たときから自分は何も感じていない。 ずっと、無表情に、それらを見つめるだけだった。
 不思議と言えば不思議だった。
 なぜ何も感じないのか、我が事ながらそれが分からない。
 泣けばいい。 悲しいなら泣くべきだ。
 頭ではわかるが、だからといって泣くことも出来ず、どうにも据わりが悪い。 何か、しこりのようなものが残っている。
 何かがおかしい、何かが間違っている。
 そんな、ざわつくような違和感だけは、感じていたのだが。

 すべてに現実味が欠けていた。
 たとえ涙が出たとしても、それはただ情緒を感じ取っているだけでしかない。
 だが、その情緒ですらもこの空間には欠けているのだ。
 まるでモノクロの世界のように、全てに印象が薄い。

 ただ、そんな中でもひとつだけはっきりと覚えているものがある。
 それは、その夜、帰り道で聞いた虫の声だ。
 りん、りんと、うたうその声だけがなぜか今でも記憶に残っていた。

 ある日、彼女は唐突に山に登ろうと言い出した。 以前話していた、星の綺麗な山に自分を連れて行きたいのだという。
 一面の星空というものに興味もあったし、何より彼女と二人で行くというのが嬉しくて、年甲斐もなく心を躍らせた。

 約束の日、自分の足は山ではなく病院へと向いていた。
 病院のベッドの上に横たわる彼女は、普段と変わらない顔で静かに眠っていた。
 ドラマなどで見慣れたその光景は、ドラマ以上に現実感がなく、窓から吹き込む風のにおいだけが真実であるかのように思えた。

 星を見に行こう。
 あの日行くはずだったあの山へ。
 流れ星に、お願いをするために。

 約束の日は一年前の今日。 彼女の命日に、ただ一人山を登る。
 さほど時間はかからない。 自分の他に登山客はおらず、山頂に作られた展望台には誰もいない。
 秋の風には冷たいものが混じり、そよそよと頬を撫でていく。
 そんな中、ベンチに腰掛け夜を待つ。
 その日、その場所、その時間。 考えるのは、自然と彼女のことになった。
 出会った時のこと、交わした言葉のこと、ころころ変わる彼女の顔は、自分でも驚くほど鮮明に思い出すことが出来た。
 なぜ、今になってこんなことを思い出すのか。
 忘れていた。 そのはずだったのに。

 自分は彼女に好感を持った。
 その感情は、時を経て何かに変わっていったはずだ。
 ならばなぜ、それを忘れようとしていたのか。

 やがて日が暮れ始め、辺りが夕焼けの色に染まるころ、遠くの空にぽつんと星が現れた。
 一番星見つけた。
 なんとなく、彼女なら歌ったような気がして、小さな声で童謡を口ずさみながら、眼下に広がる町並みに目を向ける。
 山の端に太陽がかかり、茜の色に染まる町並み。
 その上には円天にかかる小さな星。
 ぽつり、ぽつりと星は増え、町が彩りを失っていく。
 黒く染まる木々の群れ、その向こうに見える町の灯。
 それを覆い、静かに瞬きを繰り返す無数の星たち。

 不意に、一陣の風が吹き抜けた。

 つう、と、何かが頬を伝い落ちた。
 頬に手をやれば、指先に触れるのははらはらと落ちる涙の粒。
 なぜ泣いているのかも分からず、混乱し、ただ呆然と空を見上げる。
 溢れる涙は止まることを知らず、ぼやける視界に星が瞬く。

 あの山はとっても星が綺麗なんですよ。
 一面、星の絨毯みたいで。
 流れ星だって見られるかもしれませんよ。
 お願いごと、考えておきましょうね。

 一年遅れでようやくその山に登った自分がいる。
 星を、見るために。

 止まらない嗚咽。
 今になって、無意識に目を逸らしていた感情を知る。
 目を閉じ、空を仰ぎ、彼女のいた頃と変わらぬ夜空を思い、ひたすらに涙を流す。

 溢れ出すのは、優しい記憶。
 こんなにも鮮やかな、愛しい記憶。

 りん、と、鈴の音が聞こえた。

 どれぐらい泣いていただろうか。
 いつの間にか、あたりには虫の声が満ちていた。  一年前に自分が聞いたものと同じ、澄んだ、りん、りんという鈴に似た音。

 虫が泣いている。
 自分に代わって。
 あの時と、同じように。

 ゆっくりと目を開けば、広がるのは満天の空。
 彼女の言っていたとおりの星空が見える。
 深く静かに深呼吸をし、両手を広げて天を仰ぐ。
 愛しい人を抱きとめるように。
 胸を張り、腕を伸ばし。
 星たちを、抱きしめるように。

 気付けば涙は止まっていた。
 ならば自分は、一年前の約束を果たさなければならない。
 そのためにここに来たのだから。

 星に願いを。

 遠くの空で、小さな星が、尾を引いた――